医学概論教室の歴史

医学概論とは何か- その歴史的意義と使命 -

Medical Humanities - the Historical Significance and Mission

藤野 昭宏

医学概論の歴史

1) 澤瀉久敬による医学概論の基礎の確立

日本で初めて「医学概論」を学問として真正面から取り組んだのは、ベルグソン哲学者であった澤瀉久敬(1904-1995)です。澤瀉は、戦時中の昭和16年から大阪大学医学部において「医学概論」を講義しました。澤瀉は、医学が自ら反省し外に広く知識を求めることだけではなく、内省的に医学とは何かを探る「医学の哲学」として医学概論を定義し、その重要性を主張しました。後に出版された医学概論の3部作(科学論、生命論、医学論)は、当時の哲学好きの医学生たちに少なからぬ影響を与えました。

医学概論を欠いた医学は完全ではあり得ず、医学部講座の一つとして医学教育に深く根付くべきものであり、医学や医療は国民生活の福祉に直結するという国民的見地から医学概論は必須であると熱心に説きました[1]。

さらに、ベルグソン哲学者として理論よりも事実を重視するという根本的態度から、医学論や生命論を考究していく中で、西洋医学だけではなく、生命の源である「気」の思想を土台とする「漢方医学」について高い関心をもち、その重要性についても説いていました[2]。西洋哲学者である澤瀉が、東洋医学についても深く言及していたことは意外と知られていません。

澤瀉は哲学者の立場から、医学概論は「医学の哲学」であって医学の倫理学や医道論ではないことを強く強調し、医学概論の学問的基礎を確立しようと試みました。澤瀉の医学概論に対する深い思いは次の文章に端的に示されています。

一部のひとたちは医学概論なるものと、私の『医学概論』とを混同し、拙著を根拠として医学概論そのものを批判しています。しかし、拙著は医学概論という学問が確立されるための一つの踏み石に過ぎません。立派な医学概論は今後建設されるのです。大切なことは他人の著作を単に批判することではなく、自らよりよい医学概論を考究し、それを自ら論述することでなければなりません。学問は、すべて、破壊的ではなく建設的でなければなりません。私がやがて二十年になろうとする医学概論研究の間、終始一貫祈念し続けたことは、拙著を捨石にすることによって、秀れた医学概論の誕生を待望することでした。医学概論は一つではありません。無数の医学概論が可能です。既成の医学と、医学教育の現状と、さらに医療の実情とを曇りない眼で直視し、反省することによって、よりよい医学を建設しようとする人類愛的熱意と熱情のあるところ、必ず一つの医学概論が誕生します[3]。

澤瀉にとって医学概論は、医学の哲学的基礎となる学問体系であり、現実の医療の直視と反省を土台にして歴史的にダイナミックな変化をしながら、医師自らがつねに医学の根源を生涯にわたって問い直し続ける医学の根幹となる敷石のような存在でした。

2) 中川米造による医学概論の発展

医学概論の基礎を確立した澤瀉に強い影響を受けた一人が、当時京都大学の医学部生であった中川米造(1926-1997)です。昭和22年のある日のこと、医学そのものについて学びたいと思っていた中川は、澤瀉によって著された『医学概論 第一部 科学について』を読み、久しく求めていたものにやっと出会えたといいます。その年に同窓会雑誌に「医学概論序説」と題した文章を寄稿し、「医学は少なくとも人生を真に幸福ならしむべく努力しなければならない科学であり、医学者は医学とは何か、医学は如何にあるべきについて真剣に考えなければならない。それが医学概論の必要性であり、医学概論のすべてである」と述べています[4]。

卒業後に中川は大学病院で耳鼻科の助手を務めていましたが、治療を行っても患者を癒したという実感を得ることができずにいたところ、昭和29年に澤瀉から推薦されて大阪大学から誘いを受け、澤瀉の後任として医師出身で初めて医学概論専任の講師となりました。以来、大阪大学医学部教授として平成元年に退官するまでの41年間にわたって医学概論の学究に努めました。

中川によれば、明治初期の頃の医学論は西洋医学を導入した指導者たちによって訓辞をたれる形式の「医政論」であり、明治中期から末までの日本医学が第一期黄金時代を迎えた時代の医学論は、成功者たちによる説教的な道徳を説く「医道論」であったといいます。大正時代に入って大学医学部の生理系の教授が、教養としての「生命哲学」を論じるようになり、昭和に入って開戦、敗戦といった時代に医学論を担ったのは医師や医学生たちであったとしています。戦後はほとんどの大学で哲学者が「医学哲学」を教えるようになりました。さらに、昭和25年頃から一般市民が医学を論じるようになり、広い意味での社会医学として医学論が始まったと述べています[5]。

中川は、この社会医学の内容を医学概論に積極的に取り入れたのです。昭和27年に医学概論の専任講師となって初めて出版された翻訳本『社会医学の意味』のあとがきの中で、次のような社会医学に対する解釈をしています。

「現代医学は、まず、肉体から精神を切り離し、生活から神秘を捨てる合理的精神によって始められた。医者が病人において見るのは、肉体的な、生理的な異常や偏倚でしかない。医師は技術者として、その技術を売ることによって生計を立てる。かつては医師は、神父や司法官と共に、聖職(Profession)とされた。また医は仁術であった。しかしながら、魂を否定した医術は、もはや、合理性のみを基盤とする技術者とならざるを得ない。それでは病む個体の、感性的な救済への要請に応えることはできなくなる。また、病む個体の苦痛に共感をいだく社会の声に真に応え得なくなる。ここに、病者の主体性をも考慮に入れた技術が登場せざるを得なくなる理由がある。仁は、道徳的な要請ではなく、治療のための技術として合理的に変貌しなければならない。このような、非合理的な人間の主体性を、科学の名の下に提出し、実践的に解決しようとするもの、それが社会的ないし社会学的ということに他ならない[6]。」

また、医学概論を構成する柱の一つとして、医学の史実を体系化し、総合することによって医学の全体像を見つけていく学問である「医学史」が無視できない存在であると考えました。

こうして中川による医学概論は、医哲学、医学史、医社会学の3つを柱とする学問的な基本骨格が形成され、1980〜1990年代に入ると、さらに医療人類学や保健行動科学までも含めて「医学とは何か」を考究する学問として展開しました。

やがて医の哲学はバイオエシックス(生命倫理学)を含めた医の倫理の研究へと発展し、保健行動科学は当時の医学教育に強い影響をもたらしました。ワークショップ形式によって医学部教員自らが「気づき」を体験する合宿は、日本医学教育学会などの支援によって現在でも続いています。

さらに晩年の中川は、「宗教と癒し」のテーマについても言及しており、「死を見据える医療」についての考察も行っています。「癒し」については、中川が耳鼻科で臨床経験を積んでも得られなかったと回想しており、インドやアフリカの未開発地での呪術医の探索に積極的に参加していたことから、最終的な関心が合理的な学問を超えた「心の世界」にあったのではないかと思われます。

このように、中川にとって医学概論は、澤瀉のいう医学の根幹としての医学の哲学の枠にとどまらず、医学の科学的側面を重視しつつも、人間社会の中で意義ある学問として、医史学、行動科学、文化人類学や宗教学を含む学際的な社会科学としての医学を探究することでした。

3) 武見太郎の生存科学と医学概論

中川米造が大阪大学医学部で医学概論の研究と教育に没頭していた1970年、米国では従来の医の倫理に代わって、脳死臓器移植や体外受精などの最先端の医療技術の臨床応用の倫理的判断に対応できる「バイオエシックス」がすでに中心となりつつありました。中川も医哲学から医の倫理へと関心が移り、米国で誕生した生命倫理学の考究に入った形跡がありますが、この生命倫理学が日本に積極的に導入される契機をつくったのは、実は当時の日本医師会会長として医学関係者や政界に絶大な政治的影響力をもっていた武見太郎でした。

1975年に日本で初めて開催された世界医師会東京総会では、「医療資源の開発と配分」という生命倫理学の内容を主テーマとして全面的にとり上げており、1978年にジョージタウン大学ケネディ研究所のライクによって編纂された『バイオエシックス百科事典』の中の「日本の医療における伝統的職業倫理」を執筆していたことなどから、医師会会長という政治的要職にありながら、かなり先駆けて生命倫理学の考え方を当時の日本にとり入れようとしていたことがわかります。

当時のマスコミに登場する武見の姿は、カリスマ的な政治手腕でもって特権集団としての医師会を統率し、医療行政に対して圧力的な態度であったことから、生命倫理学と武見とがどうしても結びつかないと考える人もいるかもしれません。

しかし、武見には一般的には知られていないもう一つの実像ともいうべき姿がありました。それは、叔父の影響で幼少時から法華経に親しみ、慶應大学医学部在学中に仏教青年会を創設するという仏教(日蓮宗)への厚い信仰心がみられた一方で、最先端の自然科学(分子生物学や原子物理学など)への飽くなき知的好奇心が旺盛で、学問への真摯で一途な学究の徒としての姿です。自然科学への高い関心は、慶應大学の医局を出た後の若き日に理化学研究所の仁科芳雄博士の下で研究した経験が強く影響しているものと考えられます。

武見は、仏教的観点から「生存の理法」に基づく「人類生存のための統合的学問体系」の必要性を医療年鑑などの医師会関係の会誌などを通して提唱し続けてきました[7]。その彼が、ポッターの「人類生存のための科学としてのバイオエシックス」の考え方に触れると同時に、ジョージタウン大学ケネディ研究所の「生物医科学のためのバイオエシックス」の概念にも出会ったことで、それらを受け入れながらも東洋の国である日本の伝統を重視する独創的な「生存の理法に基づく生存科学」が展開されました。

武見は,「生命倫理学とは、医療を受ける側の一般人の倫理(一般倫理)と、医師の職業倫理(医の倫理)を統合した、新しい一つの総合的な倫理体系である。しかもそれは、<〜すべからず>と命じる古来からの禁欲的な倫理ではなく、現代科学の進歩に対応する新しい倫理であり、権利義務に先行する倫理でなければならない」と定義しました[8]。すなわち、生命倫理学を「社会的コンセンサスが得られる新たな医師と一般人のための総合的倫理体系」として位置づけ、また倫理を「未来からの反射」による問題解決のための積極的な行動指針として捉えていました[9]。これは、患者の自律性を極端に強調する米国で誕生した生命倫理学と比較して武見の独創的な考え方でした。

医のプロフェッショナリズム教育の重要性が新たに評価されつつある現在、この武見による医師のプロフェッショナリズムを含む生存科学の思想には、今こそ改めて注目すべき内容が包有されていると考えられます。

当時、日本の医学界においては、この武見思想ともいうべき生存科学の考え方は十分に浸透することはありませんでしたが、晩年に創設した財団法人生存科学研究所の研究活動の中で、高名な医学者、経済学者および自然科学者らによって継承されました。その一人が、産業医科大学の初代学長を14年間にわたって務めた土屋健三郎です。

産業医科大学における医学概論の誕生

1) 土屋健三郎と建学の使命

若き日に哲学者になることを志したという土屋は、医学生時代に出会った澤瀉久敬の『医学概論』に深く触発され、良き医師になるためには、人生の中でつねに自己反省すること、すなわち「哲学する」ことこそがもっとも大切であるという信念がありました[10]。

土屋は慶應義塾大学医学部を卒業、インターン医を経て医師になると、家業の臨床医家ではなく予防医学の学者としての道を志しました。母校の衛生学・公衆衛生学教室に入り、重金属中毒の実験的研究だけでなく、疫学的アプローチを用いた研究と教育にも情熱を注ぎました。

同教室の教授に就任して円熟期に入りつつあった50代半ばを過ぎた頃、当時の日本医師会会長であり、また産業医科大学設立準備委員会の座長でもあった武見太郎から学長就任の依頼要請があり、土屋はこれを応諾しました。土屋にとって武見は母校の慶應義塾大学の先輩と後輩という間柄だけではなく、武見が晩年に提唱した「生存科学」の思想に深く共鳴していました。

産業医科大学は、当時の労働省を母体として設立された産業医養成を目的とした事実上の官立医科大学ですが、産業医科大学を単なる産業医養成学校にするのではなく、医学を哲学することを通して「人間とは何か」を考究する大学でなければならないとの不退転の決意が土屋にはありました。

1978年に初代学長に就任すると、第1回入学式で「建学の使命」を提唱し、「人間愛に徹し、生涯にわたって哲学する医師」の養成が産業医科大学における医学教育の基本骨格であり真髄であると訓辞しました[11]。この建学の精神が机上の謳い文句に留まることがないようにするため、全学的な組織である医学概論専門委員会が設置されて直ちにカリキュラム編成に着手し、1年から6年までの全学年にわたって22単位という画期的な医学概論教育を行うことが提案され、そのまま実行に移されました。開講にあたっての土屋の医学概論に対する深慮と情熱は、次の文章の中で端的に述べられています。

「私は、産業医科大学の初代学長に就任してから、この大学の基本となる教育方針をどのような形にするか思い悩み、色々と新しい医学教育のあり方についても検討してみたが、結局は、医学教育の中でバックボーンとなるべきものは、医学生が医学とは何かを一生涯問い続けることであろうという結論に達した。そこで、カリキュラムの編成にあたって、医学概論を6年間にわたって必須科目として実施するように計画した。一方、医学に関する哲学を論議するとき、澤瀉先生が言われるように必ず生命論や科学論が中心になるであろうが、そうなると、人間とは何か、健康とは何か、疾病とは何か、さらに人間の文化や産業、生活などへもその議論は発展せざるを得なくなると思われる。そこで、私は、当然医学に係わる諸問題を中心とはするが、本学における医学概論は、広く、人間とは何かという議論まで発展させ、いわゆる人間学をも含有するものであるべきであると考えている[12]。」

2) 医学概論の変遷とEarly Exposure の導入

1978年から1986年までの開学当初の9年間、医学概論専門委員会委員長の鈴木秀郎(第一内科教授、後の病院長)と副委員長の本多正昭(哲学教授)が中心となって、1年から6年までの計22単位の医学概論教育の企画と運営を行いました。1981年に医学概論教室の助教授として伊藤幸郎が着任し、1986年に教授に昇任すると、医学概論専門委員会に代わって伊藤が医学概論のすべての運営を担当することとなりました。なお、医学概論の初代教授となった伊藤は、東京大学教養学部で教鞭をとっていた大森荘蔵教授の下で科学哲学を専攻した後に、東京医科歯科大学医学部を卒業し、都立病院で糖尿病を専門とする内科医師でした。

当時の基本的な教育手法は、6学年を2学年ずつ3クラスに分けて、心と身体、東洋と西洋、医学と倫理などの10テーマを6年間で「総合人間学」として修了させるもので、講師には各界の著明な学者を招待して傾聴させる従来通りの講義形式でした。

やがて学生や教員の双方からこうした教育手法の限界が指摘され、1983年度から入学した間もない1年生全員に重度心身障害児施設で実習をさせるという早期体験学習(Early Exposure)が開始されました。この導入を決断した伊藤幸郎は、この実習の意義について、次のように報告書の序文の一部に述べています。

「医学概論は単なる医学入門でなく、総合人間学としての役割を目指している、医師は医師である前に人間である。病いとは、生とは、死とはを考察することなしに単なる技術者になり下がることは許されない。しかも、最近の医学界における専門技術偏重の影響は卒前教育に反映し、“医師としてのマナー”を知らない若い医師を蔟出させている。医学生は確かに知的エリートかも知れないが、人間の苦悩への共感を欠いているものは医師失格である。本実習は病める者への共感とともに、人間共通の“生への意義”を考えさせるために企画した[13]。」

さらに、チュートラル形式の少人数セミナーを新たに取り入れ、5年次学生に医学概論の卒業論文をチューターの指導の下で1年間かけて作成させるなど、学生が主体的に学習できるように工夫されました。

医学概論が目指す医師像

澤瀉と中川による医学概論の学問的遺産について先に述べましたが、医学概論が目指す医師像については特に敢えて言及されていない印象があります。産業医という医師を養成する日本で唯一の大学の医学概論として、どのような医師像を目標とすべきなのでしょうか。

産業医科大学の初代学長に就任した土屋健三郎は、新しく入学してくる学生たちに対して産業医科大学が目指す理想的な医師像を提示する必要がありました。そこで土屋は、建学の使命を提唱し、その中で「人間愛に徹し、生涯にわたって哲学する医師」が産業医科大学の目標とする理想的な医師像であることを強調しました。さらに、これに加えて「上医を目指す医師」と「感謝されない医師」についても言及し、当時の学生たちに入学式や卒業式を通して何度も訓辞されました。

1) 人間愛に徹し、生涯にわたって哲学する医師 

「人間愛に徹し、生涯にわたって哲学する医師」のフレーズは、土屋によるオリジナルの文言ではなく、ヒポクラテス全集の『礼儀[Decorum]』に由来したものです。その中で「医師は知恵を愛する者、すなわち哲学者でなければならない。もしそうであるならば、医師は神にも似た者になるであろう」と医師が哲学することを賞賛しています。また、患者への経済状態への配慮についても言及し、「医師は料金を決めることに気をもんではならない。ときには無料で治療せよ。もし経済的な苦境にある見ず知らずの人の治療をする機会があった場合は、必要な援助をすべて与えよ。というのは、人間愛[philanthropia]のあるところに、技術愛[philotechnia]があるからである」としています。現代の臨床医学の父としてイギリスとアメリカの医学界で永く賞賛されているウイリアム・オスラー博士は、まさにこの言葉に医師の倫理の本質を見出しています[14,15]。

2世紀にローマで活躍した医師であるガレノスは、ヒポクラテス学派の伝統を受け継ぎ、「最良の医師は哲学者である」という短い論文の中で、「医師は誰でもあらゆる部門の哲学、即ち、論理学、自然学、倫理学を知らなければならない」と明言しています[16,17]。

ガレノスのいう哲学的医師とは、単に哲学文献の研究者のことではなく、自分自身の生き方が正義と自制によって形成されている医師のことです。医師にとって学習と研究は基本であり、摂生した規則正しい生活をつねに心掛け、患者には礼儀正しさと慈悲深さをもって癒すこと、これが哲学する医師であるとしました。

このように、「人間愛に徹し、生涯にわたって哲学する医師」は、2千年以上にわたり臨床医学の父とされている医聖ヒポクラテスの伝統そのものであり、その後継者であるガレノスの医学思想にも深く根ざしていることを改めて強調しておきます。ちなみに、日本の大学医学部でこの伝統的医師像を謳っているのは、唯一産業医科大学だけです。

初代学長の土屋健三郎がこの医師像を建学の使命として第一に掲げたのは、相当な熟慮の末であったものと推察され、時代を貫く深い信念があったことを感じざるを得ません。このことは次の文章の中で、土屋の確固たる意思を汲み取ることができます。

「医師は人間に奉仕するための天職である。単に学問や技術を身につけるだけでは不充分である。生とは何か、死とは何かをつねに問い、生涯にわたって哲学を勉強する必要がある。そしてその哲学を基本として、医療という職業に従事するのが本来の医師である[18]。」

2) 上医を目指す医師

上医という言い方は、西暦454年から473年にかけて書かれました、中国の陳延之の著書『小品方』にある「上医医国、中医医民、下医医病」から来た言葉といわれています。この意味についてはさまざまな解釈がありますが、「上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は病を癒す」というのが一般的な理解です。言い換えると、目前の患者の治療に全力を尽くすのが下医、公衆衛生的予防対策を実践するのが中医、国全体の医療システムにメスを入れてすべての国民が平等な医療の恩恵に授かることができる仕組みをつくるのが上医、という解釈になります。したがって、『小品方』に則して文字通り解釈すれば、上医は政治家や官僚を意味することになります。具体的には、国会議員や医系技官として医療政策や労働衛生政策で活躍する医師が該当します。

しかし、土屋の言うところの「上医」は、治療だけでなく病気が再発しないように予防医学を実践する医師であると同時に、働く人の健康が保持できるように企業上層部に対して組織的な対応が実践できる医師、すなわち企業組織内で医師として有機的に機能する「産業医」を指していることは明らかです。

「産業医こそが上医である」との土屋の独創的な発想によって、産業医科大学が目指す医師像が新たにもう一つ提唱されました。この医師像は、1978年の開学当初にあった産業医に対する負のイメージを根底から払拭することに大きく貢献したものと考えられます。

3) 感謝されない医師

通常、患者やその家族から感謝されることは、医師としての喜びであり、生き甲斐の原点となる重要な出来事です。感謝されることを心の支えとして一所懸命に医学の実践や研究に励んでいる医師も少なくありません。しかし、土屋によれば、逆に「感謝されない医師」を目標とすべきであるとしています。これは一体どういうことなのでしょうか。

「感謝されない医師」とは、病気を未然に防ぐことを実践する「産業医」を前提にした究極の予防医学を実践する医師の姿ではないかと思われます。職場環境や作業の改善によって労働者の病的症状が劇的に改善する場合もありますが、自覚症状のない慢性疾患や軽症のメンタル疾患を有する労働者に対して面接や就業制限などを実施したときは、感謝されるよりも、むしろ嫌な顔をされることが少なくありません。しかし、直接的に感謝されることが少ないことにこそ、医師として真の喜びを覚えるのが本当の医師の姿であり、利他の精神と無功徳の心を貫くプロフェッションの真髄がある、ということが土屋の伝えたかったことではないでしょうか。

しかしながら、感謝されないことに喜びを感じるというのは至難の業であり、あまりにも感謝されない日々が続くと、自分は必要とされていないのではないかと虚無感に襲われてしまうのが普通の感性をもった人間です。医師としてのアイデンティティ・クライシスに陥らないためにも、「感謝されない医師」というのは、感謝されることをあたり前と思ってしまう傲慢な医師にならないよう、逆に患者に「感謝する医師」であれ、と積極的な意味で解釈した方が土屋の真意に近いものと考えられます。

引用文献

  1. 澤瀉久敬(1964):明日の医学と医学概論. 医学の哲学. 誠信書房, 東京 pp3-30
  2. 澤瀉久敬(1978):漢方医学の本質. 医学概論 第三部 医学について. 誠信書房, 東京 pp128-165
  3. 澤瀉久敬(1978):新版の序. 医学概論 第一部 科学について. 誠信書房, 東京 pp3-6
  4. 中川米造(1991):恩師・澤瀉久敬先生. 学問を見る眼. 学問の生命:「医学とは何か」を問い続け行動する. 佼成出版社, 東京 pp44-50
  5. 中川米造(1991):私の医学概論の方法. 学問を見る眼. 学問の生命:「医学とは何か」を問い続け行動する. 佼成出版社, 東京 pp18-24
  6. 中川米造(1991):第二の柱・社会医学(医社会学).学問を見る眼. 学問の生命:「医学とは何か」を問い続け行動する. 佼成出版社, 東京 pp68-74
  7. 武見太郎(1980):人類生存の秩序とバイオエシックス. 国民医療年鑑(昭和五十五年度版)日本医師会編. 春秋社, 東京 pp5-84
  8. 武見太郎(1983):生存科学とバイオエシックス. Sophia Life Science Bulletin 2:1-23
  9. 藤野昭宏(1999):生存科学としての生命倫理学. 医学哲学医学倫理 17:42-54
  10. 土屋健三郎(1980): 医学概論. 医学概論 産業医科大学講義集 1978. 産業医科大学, 北九州 pp1-2
  11. 土屋健三郎(1979):産業医科大学建学の使命 - 昭和53年4月入学式にあたって. 産業医科大学雑誌 1:2-4
  12. 土屋健三郎(1980):巻頭言. 医学概論 産業医科大学講義集 1978. 産業医科大学, 北九州 p1
  13. 伊藤幸郎(1987):医学概論 Early Exposure報告書(1986). 産業医科大学, 北九州 p84
  14. Jonsen AR.(2000): Hellenic, Hellenistic and Roman Medicine - Fifth Century BCE to Third century CE. A Short History of Medical Ethics. Oxford University Press pp7-8
  15. アルバート・R・ジョンセン(藤野昭宏,前田義郎 訳)(2009):古代ギリシャ・ヘレニズム・ローマの医学. 医療倫理の歴史 -バイオエシックスの源流と諸文化圏における展開. ナカニシヤ出版, 京都 pp16-18
  16. Jonsen AR.(2000): Hellenic, Hellenistic and Roman Medicine - Fifth Century BCE to Third century CE. A Short History of Medical Ethics. Oxford University Press pp10-12
  17. アルバート・R・ジョンセン(藤野昭宏,前田義郎 訳)(2009):古代ギリシャ・ヘレニズム・ローマの医学. 医療倫理の歴史 - バイオエシックスの源流と諸文化圏における展開. ナカニシヤ出版, 京都 pp22-25
  18. 土屋健三郎(1978):産業医科大学の使命とその具現化のために. 産業医学ジャーナル1:40-45